野 川 沿 い に 嫁 菜 を 求 め て

平成14年11月22日 金曜日



地球屋で見た嫁菜

地球屋

 家内と深大寺に行き、ついでに地球屋でそばを食べることにした。先日地球屋に寄ったとき、挿し花、活け花、鉢植えに嫁菜の花と思われる花があって、おかみさんの話では近くに住む大家さんが持ってきた嫁菜の花だとのことであった。以来この少し濃い紫色の花が私の興味を引き付けていた。一度大家さんを訪ねてみたいというのが私の思いであった。

 地球屋に電話して営業時間を聞くと、ご亭主がでて午後2時までだという。嫁菜の花の件を話してみたところ、忙しいので午後3時から5時ころまでに電話して欲しい、とのことであった。

 家内が、今午後1時だから地球屋に行きましょうかというので、直行することにして家を出た。三鷹駅の南口8番乗り場からバスが出て、丁度14時ぎりぎりに地球屋につくことが出来た。

 座敷きに通されると、ホットカーペットにスイッチを入れてもらった。温かい蕎麦は「ぶっかけ蕎麦」しかないというので、それを頼んだ。湯だめ蕎麦に、別皿の堅魚節と大根おろしを載せ、店調合の生醤油をかけてそのまま食べるが、なかなか美味しいものであった。湯だめに生醤油というのは始めての経験である。お客はまだ取っているようで、蕎麦があれば3時近くまでやっているようである。         

 食事を終わって、おかみさんとご亭主に、さっき電話した者ですが、と嫁菜の話をしてみた。その花は嫁菜ではないそうで他の花の名前をいっていましたよ、大家の藤橋さんに電話で聞いてみたんです、とおかみさんが言った。おかみさんは電話番号を書いた紙を私に渡すと、店の斜め前の家を指さして、そこだから訪ねるように、と言った。
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 店の暖簾をくぐって外に出ると、門のわきに嫁菜の鉢植えが目についた。先日見た通りの濃い紫の花が鮮やかに咲いている。


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 門を出て振り返ると、午後の静かな佇まいがそこにあった。       先頭に戻る

 店のすぐ右手に続く屋敷の角を曲がり、古い大きな門を入ると手入れの良い庭を通って玄関の呼び鈴を押した。暫くして年配の奥さんが現れ、お話は伺っていますと言った。

  この花は紫根草だそうです、と奥さんは気の毒そうに言った。嫁菜という名を聞いたことはあるが、摘み草をしたのはナズナのことではないか、とご主人が言っているとのこと。紫根草は庭に生えているのを見つけて鉢植えにしたそうである。

  庭には紫色の紫根草のほかに黄色い千両など色々な植物があった。庭の隅には実のたわわになった柿の木がひときわ目立つている。せっかくだからと奥さんが高枝切りバサミで取って、禅師丸だそうですとひと枝を下さった。


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  そのうち旦那さんも出てきて、嫁菜というのは聞いたことがあるがはっきりしないので、年寄りに聞いておきましょう、私も年寄りなんですがと笑った。奥さんは、色々と調べてみて分かったら地球屋さんに話しておきます、と言ってくれた。思いついて名刺を渡し、あつく御礼を言って辞した。

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野川散策

 家内が、深大寺に行くのはもう無理だから新小金井に出てバスで帰りましょう、と言うので野川を遡ることにした。家内が地球屋のそばにワサビ田があると地図に書いてあったと言うので、橋を渡って探してみたがそれらしき跡はあるが畑になっていたりして見つけることは出来なかった。

 ワサビ田と思われるところより更に東に新たな湧き水見かけた。

 元のところに戻って、先日の野川逍遥を思い出しながら道をたどった。野川公園から東八道路を渡るところで難航したが、間違いなく見つけて進むことが出来た。

  野川公園の中の大きな木々はそれぞれ素晴らしい紅葉の色を見せ、地面にはたくさんの葉が散り敷かれていた。


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 人気はほとんどなく時折出会うくらいであった。            先頭に戻る

自然観察園のフェンスにそって歩いていると、植栽されている野菊と思われる花々に出会った。


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 自然観察園は閉鎖中であるが、金網越しに眺めることは出来るようになっている。

 暫く歩くと突然”どじょう池”に出くわすことになった。        先頭に戻る


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 調整池の中にポツンと置かれている”どじょう池”の回りの植物は枯れていたが、池の水は涸れていなかった。

 野川と調整池との間には道路が設けられている。街路樹として植えられている、アメリカハナミズキの真っ赤な実が土手にたくさん落ちていて、美しい。


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 野川に面した側にはベンチが置かれている。ベンチ越しに野川の対岸の手入れされた林も奇麗に紅葉していて美しい。                      先頭に戻る

 ”どじょう池”は野川に沿った長細い調整池の中にある。調整池と野川との間は土手で仕切られており、土手の上は道路となっている。丁度”どじょう池”の辺りにその道路から調整池の中に下りる道路が急な坂をなしていて、ここを下って”どじょう池”に行くことが出来る。


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 池を一回りして帰路についた。途中”どじょう池”の直ぐ近くの調整池外周道路の縁に、先日見つけた嫁菜を訪ねた。すっかり小さくなっていたが、花が幾つか未だ咲いていた。

  このは、の家の関東嫁菜花姿非常に良く似ている。人がここに植えたのには違いないが、嫁菜知って植えていたとしたらどんな方であろうかと思いを宙に馳せてみた。


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 西武多摩川線に向かい、ガード手前で道を左に折れて坂を登り、ただ真っすぐに新小金井駅に向けて歩いた。最短の近道であった。

 新小金井駅まで行ってからバス通りに戻って、バスを待った。三鷹駅行きのバスがすぐに来た。見なれた渡辺整形外科医院の前を通り、武蔵境車庫停留所前の葉が黄色く紅葉した銀杏の苗畑を見ているうちに、三鷹駅に着いた。

  今日は三鷹駅を出発して一回りし、再び三鷹駅の別のバス停に無事につくことができた。 吉祥寺の家を午後1時に出てから5時50分家に着くまで、4時間50分の旅であった。

 

今回の旅のキーワードは「紫根草」、「禅師丸」である。

  

紫根草

 紫根草は紫草ともいい花の色は白色である。それを改めて知ったのはインターネットで検索してからである。
  ムラサキ科 Boraginaceae 紫草 Lithospermum erythrorhizon Sieb. et Zucc.

 紫草の紫染料となり、それで染めたもの古代から南部紫なんぶむらさき)、江戸紫えどむらさき)といわれて人々に愛されてきている。

  紫紺草というのは見当たらないが、園芸品種でこのような名前が付いているものも、あるかもしれない。

 紫草は、古代から武蔵野を代表する花であり、古今集第十七巻八六七讀人知らず、に次の歌がある。
 紫のひともとゆゑに武蔵野の草はみながらあわれとぞみる        

 京の都において、と言えば武蔵野を表すようになって久しい。そのころ武蔵野の文字から心に浮かんだのは、紫草の茂った寂しい野原の姿であったという。    先頭に戻る

 紫草の根を乾燥させた紫根漢方薬の一つでもある。中国の古典である漢方薬書の「神農本草経」にも代表的な生薬の一つとして収載されている。

  紫根牡蠣湯しこんぼれいとう)、潤肌膏じゅんきこう)、江戸時代の華岡青洲が作った紫雲膏しうんこう)、その他解熱剤や解毒剤として内服薬があり、日本薬局方には紫根エキスとして記されている。

 いま紫草武蔵野にほとんど見当たらなくなって、むかし武蔵野を代表していた花が紫草であったと知る人も少なくなっている。紫野が武蔵野になったのかもしれない、という説もあったそうである。

 私がかよった中学校は武蔵野市立第一中学校といい、校章に紫草の花が使われていた。在校時代に校章のデザインが決まり、紫草のいわれを教えられていた。

  そのことを今回やっと思い出すことが出来たが武蔵野市立第一中学校はウエブサイトを持っていないので、インターネット検索には出てこない。

  このような学校はまだたくさんあるのではないかと思う。三鷹市立第七中学校の校歌に紫草が歌われていることも、検索に出てきたサイトを見て知った。


禅師丸

 禅師丸は、神奈川県都築郡柿生村字王禅寺(現在の川崎市麻生区王禅寺)にある王禅寺の裏山で発見された甘柿で、日本で最初の甘柿品種といわれてる。明治22年(1889)に町村合併で柿生村が誕生した際に、禅師丸の里一帯が大字王禅寺となっている。
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  禅師丸は、鎌倉時代、順徳天皇の建保2年(1214年)に、星宿山王禅寺蓮華院再建に際して建築用材を王禅寺の裏山で伐採した時、山中に自生している柿の木として発見されたといわれている。

  美味で豊産のため次第に栽培者が増加し、徳川時代にはこの地に相当数栽植されたという記録が残されている。昭和25年頃には東京、神奈川の両県で450haの栽培面積があったが、その後激減し、現在では授粉樹や台木として用いられているにすぎない。

 私が初めて禅師丸をはっきりと認識したのは、神奈川県の伊勢原市にある大山阿夫利神社の参道沿い中程にある子易というところで、柿(子易柿・禅師丸)を見たときである。

  この辺りは子易柿(こやすがき)の有名な産地である。子易一帯には背の高い大きな柿の木がたくさんあって毎年実がたわわになっていたが、カキの実は小さく、収穫するのも大変でいつも木についたまま、鳥に食べられるのを待っているだけであった。

  この柿が今では子易ワインになっているそうで、柿の利用の研究を続けてきた地元の努力に敬意を表する。また町田市川崎市でも禅師丸柿ワインが造られている。

  私は、この子易柿が禅師丸であるということから川崎市麻生区の柿生(かきお)の禅師丸を知ったのである。その後同じ麻生区の王禅寺が禅師丸生誕の地であることを知るに至ったのである。                            
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